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2013年3月

2013年3月31日 (日)

学びこし道

自称「不良中年」の私ことカマキリ、実は高校教員でした。今日付けで30年の教員生活に終止符を打ちました。この30年間を振り返って、とある雑誌に以下の文を寄稿しました。お時間があるようでしたら、ご一読いただけると幸甚に存じます。(2030分くらいかかります)

はじめに

198311日、私はC県の高校教員になった。前年に採用試験を受けたから翌年41日付採用が一般的だが、採用者名簿登載日当日に正式採用となった稀なケースだろう。こうして教員となって30年、H葛飾地域の6つの学校で勤務し、担任した生徒は700人、授業を受けた生徒は7000人を超えている。その数の多さに我ながら驚くが、この30年間の生徒たちとの触れ合いの中で私がやろうとしたこと、出来たこと・出来なかったこと、考えたことなどをまとめてみよう。自分自身の教員生活の総括であるとともに、これから教職に就く若手教員の一助になればとの思いからである。

1. 教員への道

 

大学時代、学費から生活費に至るまで奨学金とアルバイトで賄い、親から一切仕送りのなかった私は、大学院に進んで研究者の道を模索していたが、経済的理由と自分の資質から断念。教員になろうと決めて学部卒業後二年間夜学に通って教員免許を取得した。大学生としては結構勉強した方だろうと自負していたのでチョロイと思った教員採用試験は、不合格。しばらく外から教育の世界を見てみようと「N教育出版社」なる会社に就職。が、「教育」「出版社」とは名ばかりで、実態は専門学校のガイドブック制作会社。専門学校から集めた広告宣伝費で媒体を作り、クライアントと専門学校への進学者が多い高校にその媒体を相当部数アリバイ的に発送する。そのガイドブックの制作と販売促進用雑誌の編集を担当していた。首都圏の専門学校や高校の進路指導部を中心に、文部省や専修学校協会などを取材して記事を書いていたが、媒体制作会社のいい加減さや高校の進路指導担当者の無知がやけに目についた。「専門学校と専修学校の違い」や「無認可校」のことなど分からない教員が大半で、それを良いことに無認可校は誇大広告はやり放題。ガイドブック制作会社も認可校と無認可校を混在させた媒体を平気で出している始末。今ほど専門学校の地位と評価も高くなかった時代で、高校の進路指導といえば大学・短大か就職が中心。専門学校の実態を知っている教員はほとんどおらず、送られてきた媒体を疑うことなく生徒に渡し、無認可校に生徒を送ったことすら分からない。入学して初めて学割がない、資格が取れない等が分かるという悲惨なことも起こっていた。

「この学校は、載せるわけにはいきません」と社長に直談判し、会社を辞めたのは32年前のこと。営業マンが専門学校の認可を受けていないC県の、とある学校の広告を取ってきて載せようとする。何も知らない高校生をさも「認可校」のようにだましてしまうことが許せなかった。営業畑の社長はそんなことを全く意に介せず、掲載させようとする。「この三百万を失うことは痛いが、ガイドブック延いては会社の信用を失うことになるのでは・・・」と言ったが、聞く耳を持っていなかった。こんな会社、潰れた方が良いと思った。

 次に勤めたのは、大学生の就職ガイドブックを作っている会社のC営業所で、同じく制作を担当した。二期目に入ったとき、50余りある営業所で売上げが下から3番目だと知らされ、所長に「私が売ります。営業をやらせてほしい!」と大見得を切ったが、1ヶ月何も売れず、目が覚めると「ああ、会社行きたくないー」と鬱の連続。つらい日々だった。そんなとき、私がいずれは教員になりたいというのを知っていた営業の先輩(教員免許保持者)が、「営業って、授業と同じだよ」という。「エッ?!」「昨日、ジャイアンツ勝ちましたね!って導入から入って、あれこれ展開し、最終的に『これ買ってください』とまとめる・・・」。なるほど、目から鱗だった。吹っ切れた私はその後どんどん売上げ、終わってみれば与えられた目標の140%余りを売り、特別ボーナスまでもらった。が、これは私の仕事ではないと思った。折しも大学の親友と飲んだ席で「お前は、絶対教師に向いているからなれ! 経済的援助はするから・・・」という。坂口安吾の『風と光と二十歳の私と』や灰谷健次郎『兔の目』、灰谷氏と林竹二氏の対談集が背中を押してくれた。こうして私は、マルクスとエンゲルスの関係を受け入れ、会社を辞めて数ヶ月教員試験に向けて猛進した。「よーし、全て一番で教員になってみせる!」と。応募書類も郵送せずに受付初日に一番で持参し、試験日も一番乗りした。

一次試験の2週間後くらいに非常勤講師の話が来て、A高校で面接した際に校長が「君のことを県の担当者が知っていたよ!」という。不思議ことがあるものだ。当時、Y市に住んでいたとはいえ、C県には一切コネなどはない。聞いてみれば、受付初日に一番乗りし、元気よく挨拶したのが功を奏したようだ。 ”Where  there  is  a  will , there  is  a  way.

一次試験の結果が発表される前で驚いたが、こうしてA高校で非常勤講師として勤務するとになった。いずれ正教員になるのだから事前勉強のつもりで、授業時間だけでなく朝から出勤し、フルタイムで部活指導もやらせていただいた。9月末、一次試験の結果が届き、受かっていた。10月初旬には、郷里・I県の一次試験の合格通知も届いた。教頭さんに「I県の二次受験のため休暇が欲しい」と言ったら、「ちょっと待て、校長さんが君を正式採用するように県に働きかけている」という。校長室に呼ばれて、その話をされ「分かりました。C県で骨を埋めるつもりでがんばります。I県は受けに行きませんので、あとはよろしくお願いします」といって席を立った。校長さんのおかげで「A採用」となり、なんとその年度の一月一日、来年度採用候補者名簿の登載日に正式採用となり、そのままA高校の正教諭となった。(1学期で退職した方がおり、ポストが開いていた。期限付き講師・臨時任用講師の導入前のこと)

2. A高校(19829月~19873月)

 「全員、上がれ!!」と叫んでまもなく、センターフォワードの選手が豪快なミドルシュートを相手ゴールにたたき込んだ。それは見事なゴールだった。一月の全国高校サッカー選手権の地区予選1回戦でのこと。相手は、前の大会で1年生チームながらベスト8に進出した強豪。そのチームに0-1で負けていた後半残り3分のこと。選手は監督である私の指示通りに動いた。延長戦前後半0-0でPK戦となり、負けはしたが選手達の可能性を感じさせる試合であった。また、3年間指揮したバレーでは、その年全国制覇したN高校と対戦し、1セット目9-3とリードして相手チームにタイムをかけさせたこともある。これらはいずれも実力で雲泥の差があるチーム相手に、いかに選手を発憤させるか腐心した結果である。監督って面白い、とその楽しさを学んだ。

 初任校での4年半は、ことほど左様に部活動指導に明け暮れた4年半だった。

新設校が1年で9校も出来た年で、同期は男4人女2人の6人、学校全体の教員も結構若く、部活動指導後は毎晩のように飲んでいた。ソフトボールチームを作って市のスポーツ大会に出て準優勝したり、ラグビーチームを結成するなど運動面では色々やったなー。組合運動や教材研究はさっぱりだったけど・・。

部活指導に明け暮れ、勉強した4年間とはいえないが、教授法は色々と模索した。今では広く実施されているディベートや株式売買ゲーム、新聞を利用したNIEだが、30年前に自己開発して実施していた。大学時代、ESSDEBATEをやった経験や新聞社の編集局でのアルバイト、株式会社勤務の経験などが生きている。また、フィールドワークの手法を取り入れたKJ法を利用した授業展開(生徒の発言のどれ一つも捨てずに生かした授業)、歌や詩を使った現代社会の授業等など。いまでもつながりのある卒業生は、担任をした生徒よりも「政経」の補講を受けていた生徒が大半。受験のノウハウや知識だけでなく、現代社会への関わり方や私の生き方を真摯に語っていたからだろう。

当時のA高校は1つの過渡期だった。暴力団のパー券、かつあげ、あんぱん、バイクの校内乱入、対教師暴力etc。生徒・教職員の努力によって実態が改善されても、中学校の評価は不変であった。そんな時代のA高校で卒業生を送り出し、部活動より教材研究がしたいと思うようになった。折りしも若手教員が巡検や切磋琢磨して自主教材作りを進めていた「KN・現代社会」が、組合教研で話題になっていた。転勤するならここ、とばかりに希望を出したら、運良くすんなりと転勤できた。

3. KN高校(19874月~19933月)

 

「おまえなんか、前の学校に帰れ!」と職員会議の場で言われてしまった。

「色々発言すると仕事が回ってくるから黙っていよう!」とダンマリを決めこむ筈が、職員の合意もなく突然の思いつきで独断専行する指導部長の言動に耐えきれず、喋りだしたら止まらなくなり、「前の学校では・・・」と話したのが良くなかった。今でもあのときの発言は間違っていなかったと思っているが、転勤早々のこの事件以来、仕事をすすめる上でなにが大事なのかを学ばせてもらった6年間だった、と思っている。

 タブララサ(白紙)の状態から何等かの形で刻印付けされてしまう最初の赴任校。その印象があまりに強いと2校目での戸惑いは大きく、カルチャーショックを受けてしまう(その最初の体験は、入学式での巨大な日の丸と君が代斉唱であった)。そして、「校務分掌の公選制」という仕事の押し付け合い(?)に嫌気がさして転勤したはずなのに、前任校のすべてが良く見えてしまう不思議さ。この事件を契機に私は2つの事を学んだ。第一に、正論が必ずしも通るものではないということ。第二に、「物は言い様だ」ということ。つまり、自分の言っていることが正しいとしても、それを実行できるだけの量と質そしてポストと信頼がなければ目的達成はおぼつかないし、同僚を誹謗中傷し、感情を逆撫でするようなものの言い方は、結果として自分が正論と考え、理想を達成しようとする障害となる、ということだった。自己の理念に基づく理想の教育・学校・生徒のあり様を構築していくために何をしなければならないか、やってできるか、そしてその手段と方法は何か。様々な価値観・人生観・世界観そして教育観を持った職員の集合体である学校という職場の中で、総意を形成していくことの難しさ。自分一人の無力さの自覚。職員の協調性、協力体制の重要性。理想達成の為には一匹狼ではできないし、皆の合意・協力が不可欠だということ等々……。

 少なくとも3年間は転勤できないんだから自分のいやすい環境にしようと思った。次年度、1学年の担任を希望。学校全体を急に変革することは出来ないが、学年組織を核としつつ3年計画で自分の考える教育を実践したい、と思った。折しも構成メンバーは大半が既に卒業生を一度は送り出している強力メンバー。生徒の自主性を尊重し、それをバックアップしつつ「育てる」ことに主眼を置いた教育が学年主任を中心に実践できた。単年度ではなく、「3年間を見通した教育」を強く意識しだした始まりである。

 1988年、この年を象徴する事件は天皇の吐血・下血騒動。井上陽水のセフィーロのCM「皆さん、お元気ですか?」が放映されなくなったり、運動会・体育祭などが中止されたり、それはそれは異様だった。何でこんなに大騒ぎするんだろう、との素朴な疑問から出発して、天皇に関する本を片っ端から読んだ。そして、分かった。井上清が「一木一草に天皇制あり」と書いていた意味が。我々日本人は、日々天皇漬けにされている。祝日の大半、パスポートの菊花紋章は、天皇のお陰で休めるし、外国旅行が出来るといわんばかり。学校儀式は天皇を恐れ畏ませる為のものとしてスタートし、賛美歌「君が代」をマリア像ならぬ「日の丸」を見せつつ歌わせる。元号を強制することで自分の時間が天皇の時間で区切られてしまうなど、実に巧妙に仕組まれている。

こんなことを知ってしまったら、これまでと同様に生きれるはずがない。が、

卒業式での実施を阻止できなかった私はこの年の式を欠席するという消極的な対応で闘いから逃げてしまっていた。この問題を巡って私に強烈なインパクトを与え、教員としての在り様を教えてくれたのは前年の卒業生だった。思い起こせばその年、君が代斉唱の時に座っていたなー・・・と。私は自分が恥ずかしかった。翌年度の入学式以降、私は自己に忠実に生きようと決意し、1人で座りだした。(ちなみにその生徒は、アメリカの大学を経てT新聞の記者になった)

 私がKN分会の機関紙『ぶらんこ』によく書いたのは、職員会議の非民主性の問題や“定年でもないのに諦念”という言葉で言おうとした職員のあり様の問題だった。職員会議が内職の時間となり、活発な意見の交換が成されず、原案を通す機関と化していた時代があった。その原因の多くは、職員のヤル気を削ぐ管理職の分掌決定の在り方に起因しつつも、それを打破できない職員集団、そして職員個々の諦めに最大の原因があったように思う。「教師が怠けると、怠けた分だけ子供が辛い目にあう。だから、教師は怠けるということが絶対に許されない職業だ。教師が怠ければそれだけ生徒は辛い目にあう」 元宮城教育大学学長の林竹二氏は、灰谷健次郎との対談『教えること学ぶこと』のなかでそう言っているが、別言すれば教師が理想を失い、諦めてしまったら教育は成り立たない、とも読める。確か、「教育」は“educate”(引き出す)から来たものでしたよね。生徒の隠された鉱脈を掘り当て、引き出すのが我々の仕事ならば「教え育む」というよりも共に学び、共に育つ“共育”が本来のあるべき姿ではないか! というのが私の根底にはある。林竹二はこの“学ぶ”ということについて「本当に苦しんで自分を越えないと、子供から学べない。卑俗な自己が否定されないと、子供から学ぶなんて有り得ない」とも言っている。

KN高校時代のある時期、この「卑俗な自己」に嫌気がさして退職しようと真剣に考えたことがあった。2年の担任をしつつ、中央委員をやっていた頃の話。この年(1989年)は、日本の労働界が分裂するか否かの分水嶺で、不毛な(?) 議論の渦に翻弄され、私生活での第二子誕生が重なって公私共々多忙を極めた。6月の中国・天安門広場で命を賭して自由・民主を勝ち取るべく闘っている青年の姿にうたれ、自己と格闘していたクラスの子。そして彼と同様に興奮しつつも、日常性に埋没して情熱を失いつつある自分に嫌気がさしたからだった。「定年でもないのに諦念」という言葉を多用し始め、過激派扱い(?)されるようになったのもこの年。8年条項・15年条項を盛り込んだ人事異動方策の唐突さに反発したり、「日の丸・君が代」等を巡って校長と対立したものだ。何度か朝のSHRの開始時刻を遅らせるきっかけを作ったり、卒業式の君が代斉唱時に一人で座り始めたりなどなど…。自己に忠実に生きようとして「傲慢の犯罪性」を撒き散らした時代でした。“そんな時代もあったねと…”(中島みゆき) と言えるくらい学校の姿が見えてきて、仕事の進め方や学校という組織の在り方等を学ぶ契機となったのは、卒業生を送り出した年の文化委員会顧問の1年間だった。職員及び生徒組織の縦糸・横糸、相互の連関、連絡調整など学校全体で取り組む行事の実務責任者として仕事させてもらったことは、私の教員生活の中で大きな意味を持っている。と言うのは他でもない。批判することはたやすいが、創造することの大変さを学ばせてくれたし、職業人として、そして人間としての幅を広げてくれたからだ。

以下、KN高校でやったことをいくつか。

①帰りのSHRでのスピーチ

コミュニケーション能力、情報発信力を身につけさせようとして始めたのが「1分間スピーチ」。1分に満たなければ翌日やり直し。最初は、出来るだけ自分の得意な話をさせる。話の質が伴うし、クラスメートの趣味や興味・関心事・志向を知る事が出来る。二回目からは、時事的なことをテーマに。2年次は、2分。3年次は3分と1分づつ増やした。1年次、1分以上話すことが出来ず、何度もやり直しさせられた子が3年次に再び我がクラスとなり、「走ることの楽しさ」を堂々とスピーチできるようになっていたのは、感動ものだった。

②「最後の授業」

単年度でなく「3年間を見通した教育」を意識した最初の学校。持ち上がり担任の2度目となるこの学年では、教科指導もそのタームで考えていた。まず、1年次に10クラス中9クラスを受け持った現社。天皇に関する授業がその後の生徒の意識や態度変容に繋がっているかどうかを人知れず私は調べ、まとめている。

私が実施したKN高校・「現代社会」で誇れるのは、この天皇授業の他に「尾崎豊の歌に見る青年期」の授業である。五年研の研究授業として実施したものだが、当時、悶々としている男子生徒が隣のクラスにいた。なぜか、私のいる研究室に良く遊びに来る。話していると尾崎豊が好きだという。全く知らなかった私は、レンタル店にあった尾崎のCDを全て借りてきて聞いた。その歌詞を妻の協力を得ながら読み解いていくうちに、これは「青年期」の授業に使えると思った。よーし、彼のために尾崎豊の授業をやろうと思った。(「指導案」参照)1人の迷える子羊を救えないものが、誰を救えようか?! 彼にとってどんな授業だったか、聞いた事がないが、我ながら結構いい授業が出来たと思っている。

そして、その2年後。彼らが卒業する最後の授業で、私はこの指導案を示しながら、私がどんな思いでこの授業をしたのか語りだしたらすすり泣く声が教室のあちこちから聞こえてきた。ドーデの「最後の授業」のアメル先生のごとく私も「もうおしまいだ」と言って、黒板に向かって泣いた。

4.S高校(19934月~20013月)

「そっちに転勤希望の社会科の先生はいる?」「いますよ。替わりましょうか?」 私の転勤は、この電話から始まった。N高校への転勤が日の丸・君が代問題の余波でご破算になり、困った私がS高校のT先生に入れた電話だった。転勤希望者同士で話を付け、互いの校長に話を持ち込み、バーター取引が成立する。人事に関して校長の権限がほとんど奪われた今ではとても考えられないことが当時は可能だった。家賃値上げを巡って大家さんとやり合って借家人の悲哀を味わったことと有機農業への思いが強くなり、群馬に転居することを決めていたため、通勤可能な学校が限られていたからである。

転勤してまもなく、S分会の機関誌『ぽいんと』に次の文章を書いている。

 「S高校は、どう?」 私の転勤を知った人達が、開口一番、こう聞いてくる。「いやー、凄く面白いですよ! 転勤して良かった」と言う私の話を知人達は、不思議そうに聞いていた。生徒指導が大変だ、とまことしやかに喧伝されていたが、ことS高校に関して言えば「そんなでもない」というのが偽らざる気持ちです。転勤に際しては、校長先生にオドサレタ(?)こともあってそれなりの覚悟をしてきました。小心者の私ですから、やっていけるか不安もありました。2ケ月が過ぎ、生徒の姿が少しは見えてきて、多少安心すると共にヤリガイを感じ始めています。

 まず、私が驚いたことは、遅刻・欠席者が以外と少ない。掃除を良くやる。生徒が人懐っこく、素直で礼儀正しい。授業開始前に入室していて、授業中の反応が良いこと等。かつて組合のレポートで、ある「さんずい」学校の出席簿のコピーを見て唖然としたことがあるが、そこまでひどくはなくても遅刻・欠席者は相当数いるものと思っていた。また、別のある高校では生徒の大半が校舎内を土足で歩き、授業どころかテストが成立しない(つまり、テスト中に立って歩く等)状況がある、という。本校での授業はどうか不安であったが、どうやら杞憂であった。「知らない」というのは恐ろしいものだ、とつくづく思う。

 さすがに、3校目ともなるとカルチャーショックはない。「まあ、そんなもんだろう」と少し冷め、客観視出来るようになる。それにつけても本校は、「教育(?)しているな!」と感じます。毎日の立番指導、礼儀作法、基礎学力テストの実施、毎週のようにあるレポート提出等など。普通高校では考えられないが、逆に言えば普通高校がいかになにもやっていないか、ということでもある。「高校卒」が最終学歴にならないものが大半を占める学校では、生徒の質に助けられ、自らの教育責任を先送りし、放棄しているとも言える。本校に赴任してつくづく思うのは、前任校が「生徒の自主性に任せる」と言いつつ「放任」し、定年でもないのに「諦念」者の何と多かったことか、という事。私自身も自分なりに指導してきた積もりだったが、「果たして何をやってきたんだろう」と、少し自責の念にかられている。それに引き替え本校は、先生方の自由闊達な意見交換や一致協力した指導体制、民主的な会議の在り方など、かつてのA高校に戻ったような感じがしている。S高校とA高校、KN高校の職場の違いは、物事が民主的に進められているかどうか、である。とりわけ職員会議の持つ意味は大きい。4月5日の今年度第一回の会議を見て、「会議はこうでなくっちゃ」と正直言って私は嬉しくなった。会議が校長の御用機関と化して、職員の総意が生かされない職場は、いずれ“諦め”が蔓延し、死んだ教員ひいては死んだ生徒を生むからだ。本来、S高校の職員会議の在り方は、至極当然のことであって驚くに値しないのだが、C県教育界の現状があまりにかけ離れている為に、輝いて見えてしまう。70年代後半以降に新設された学校の大半は、管理体制の強化の中で自由が奪われ、もの言わぬ教員、死んだ職員会議が恒常化しているらしい。それに引き替え本校は、若い先生方が生き生きして活気が溢れている。この職場の雰囲気を大切にしたいと思う。

 

 当時のS高校は3年間クラス替えがなく、担任も持ち上がりが原則。だから3年間を見通した教育が出来た。普通高校との大きな違いは、職業科の教員数が多く、クラス・学年の軸と食品化学科・機械科・電気科・工業化学科といった科の二つの軸があって、生徒一人一人が学年としてのまとまりと科としてのまとまりの二つで括られ、手厚い指導を受けられることだろう。とりわけ各学科には実習教員を含め指導者が多数配置され、実習は生徒10人を一人の教員が指導するといった感じ。それに引き替え家庭科の実習は40人を一人で見なければならない。料理用酒を飲んでしまう子がいたり、危険な刃物を扱っているのにだ。結構指導に手を焼く強者がいたり、授業中立って歩く子がいて「コラーッ」て座らせに行くと、今度は違う子が立ち歩く。モグラたたき状態の時もあった。指導に疲れ果て、休んだこともあった。田んぼの畦の草刈りをし、上毛三山や浅間山を眺めていると悩んでいることが些末なことのように思えたり、いっそのこと教員をやめて専業農家になろうかなどと考えたこともある。

 とりわけ、担任をしていた3年間は停学者の連続で、停学者がいた年間延べ日数が120日を超える年もあった。喫煙・バイクの無断取得・いじめ・暴力行為・金銭強要などありとあらゆる事が起きた。生徒は全県一区で隣接学区規定がないからC市から通っている子がいたりして通学範囲が広いから家庭訪問も大変だった。

一日でKヶ谷→A孫子→I井(現・B東市)へ家庭訪問したこともある。そんな日は5時に家を出て124kmの道のりを車で通勤し、夕方から家庭訪問。帰宅する元気はないからSホテル泊。週2日くらいのペースでホテル住まいだった。アメニティーは、床に段ボールとシュラフというすばらしさ。ムムッ?!

転勤すれば新幹線代を含め交通費が全額出ると聞き、転勤を決意。この8年間の持ち出しは、一月4万円×12ヶ月×8年=384万円であった。

5. NM高校(20014月~20053月)

 

私が文章を書く時って、何かに怒っているときだったような気がする。その大半は、校長や教頭の反動的な言動や県教委・文部省の理不尽な行政命令に対してであった。日の丸・君が代に代表される学校現場への政治的介入、強制に「教育の政治的中立性」を盾に闘った日々。そして敗北後の虚脱感・・・。徒労感はなかったが、学校現場に混乱と諦念(あきらめ)をもたらした文部行政が腹立たしく、許せなかった。感情を吐露するっていうか、怒っている時って次から次に言葉が出てきたし、徹夜してでも糾弾の文章を書いたものだった。書ける自分が確かにそこにはあった。前任校(S高)での話である。

NM高校での4年間は、その対極にある。文章を書くどころかほとんど思考停止状態で、失語症に陥っていた。とりわけ、初年度は「異常」だった。転勤してきてすぐに1年担任。「まー、ゆっくりやろう!」と思う間もなく、入学三日目から始まって多くの停学者と退学者が出て、愕然。教員生活20年弱、「全員卒業」を掲げて担任した生徒は400人弱いたが、自分のクラスからの中途退学者は私も納得ずくのたった一人だったのに、なんと1年目にして3人も退学者を出してしまった。学校の違いなのか、時代の違いか、はたまた自分が変わってしまったのか? 1年目から悩んだ。

大人が寄って集って“嬲っている”としか写らなかった1年目の学年室での指導。違和感・嫌悪感を持った。できるだけ自分も行かないし、生徒も行かせたくなかった。しかし、共通理解・同一歩調の美名の下、何人あの“拷問部屋”に行かせたことか? 悔やまれる日々。AKB48の峯岸みなみの「丸刈り謝罪」でもあるまいに停学者には丸刈りを強要していたな―。確立した生徒指導の方法をめぐって転勤したての私に発言権は殆どなかったし、ましてや生徒においておや。自分の意に反した行動を要求され、「やらねばならず」にやってしまう自分の情けなさとその後の虚しさ。そこに慢性的な睡眠不足が追い打ちを掛ける。これまで一度も教えたことのない科目を含む3科目週9時間分の教材研究を強いる教科の分掌、そして男子バレー部顧問。部活指導を終えて帰宅するのが22:00過ぎで、翌日6:00には自宅を出る。教材研究する時間などなく、パソコンに向かって座ったまま寝ている日々。多忙な校務と慢性的な睡眠不足も手伝って私は殆ど心神喪失状態。身体にも異変が生じ、痛さの余りベッドから起き上がれない。腰が曲がらず靴下も一人では履けない状態が何日も続いた。部活指導で土日もなく、過労死寸前の状態だった。遠距離通勤を決めた9年前に遠距離通勤を逃げ口上にしないことを密かに誓っていたこともあり、身体が信号を送ってくれたのだろう。教員を辞めようと思った。校長に話したら「Sさん、好い加減が大事だよ!」って言われ、救われた。が、2年後にこの子達と一緒に私もこの学校を卒業しようと思った。

そして迎えた2年目。前年にも増して私の精神状態は芳しくなく、短気で怒りっぽく、すぐに切れていたように思う。意気込み過ぎ? 酒の飲み過ぎ? カルシウム不足? 寝不足? ・・・さて何だったのか? 他方では不条理なことに怒りもせず、諦めは早く、学校には変に馴染んできて悩みもせずに権力的対応をしていたに違いない。やることなすことがうまくかみ合わず、空回りの1年だった。そんな自分の姿を見て、さりげなくカバーしてくれたのは他でもない。クラスの生徒・K君であった。またしても私は、救われた。

 3年目。言わずもがな、「アッ」という間の1年だった。「子供は親の背中を見て育つ」というが、クラスは良くも悪くも担任の反映だろう。「うるさくてまとまりがない」クラスだったが、3年次の学校行事は凄かった。球技祭・体育祭そしてNM祭・・・。一時諦めかけた私を叱咤し、完成にこぎつけたあのパワーは何処から来たのだろうか? NM高校20周年にちなんで卒業生5400余りの空き缶への彩色と卒業生一人一人の記名、そして連結。みんなの協力がなければ決してできなかったこと。3年目は、クラスの皆んなに救われた。

 「人間は、馴れる動物である」と言ったのは文豪・ドストエフスキーである(『死の家の記録』)。確かに転勤当初、嫌で嫌で仕方なかったこのNM高校での日常に徐々に慣れ、愛おしさ(?)さえ感じるようになっていた。生きるためには「馴れる」ことが必要不可欠なのだが、私は更に、人間はどうにでも「なれる」存在だと思っている。つまり、環境への適応のみならず、その環境自体をも変えられる可能性・可変性をもった存在だってこと。そこで問われてくるのは、待ちの姿勢ではなく、打って出る積極性だ。ある会社の社訓「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」ってやつだ。現実から逃げていたから書けなかったこととそれを気付かせてくれ、勇気を与えてくれたのがクラスの皆だった。

 管理教育と部活指導で疲れた4年間だったが、この学校勤務時代に憑かれたように浸かりにいくようになったのが温泉。(詳細は、季刊『P』誌16号「“温泉”に恋して」参照)。超多忙な公務の反動だったといえるが、温泉と出会えなかったら私は存在していなかったかもしれない。頑張りすぎると生命を縮めるだけでなく落としてしまうこともある。「頑張らない」ことも時には大事なのだ。教員が心身ともに健康で生き生きと生きていて、教員の仕事を楽しんでいることが子供達とふれあう大前提だと思う。私にとっては、まさに“恩泉”であった。

 分会の仲間も増え、さあこれから学校改革という時期が到来したが、車→信越線→新幹線→埼京線→武蔵野線→自転車で学校という通勤に疲れ、行きも帰りも座れて寝れるT武線沿線の学校への転勤を希望。こうして、因縁のN高校に転勤となった。

6. N高校(20054月~20063月)

 

入学式当日から指導に従わない。HR途中で突然教室を出て行く。TPOを全く考えない自分勝手な行動をする多動性の子が多かった。集会には来ないから探し回る、時には隣のK田学園に逃げ込むなど、ありとあらゆる想定外の事が連日起こった。喫煙なんて可愛いもので、まーとにかく色んな事で振り回される毎日だった。昼食を食べ始めると放送が入って、追いかけっこが始まる。落ち着いて食べれた日は、何日だったか? 教育困難校での教訓そのⅠは、「昼食は食べれるときに食べておく」だ。

とりわけ、いじめ問題への対処には苦労した。加害生徒の親が事実認定をせず、緊急避難的な「自宅学習」処置を「教育を受ける権利の侵害だ」と非難し、「お前は、うちの子を差別している」と差別者扱いを受けたり、別の親の知人とか言う右翼団体・政治結社を名乗る人から「いつも月夜の晩だけではないぞ!」と自宅に脅迫電話があったりなど。でも、私の考えや行っていることを穏やかに懇切丁寧に話したら理解してくれた。最後は「頑張ってください」とエールまで貰ってしまった。その後、関わった生徒宅への家庭訪問や保護者・生徒・学校側との話し合い、5時間に及ぶLHRなど結構大変だったが、職場のサポート体制がしっかりしているから助かった。学校全体が8クラスと小規模で、職員室にほぼ全員がいるから校内で起こっていることは、みんなお見通し。Face to Face で和気藹々としているのだ。生徒の指導も「親身の指導」で、入学当初に教員不信で斜に構えていた生徒も心を開いていく。学年を超えて全体が見える。小さいって、いい!!

Kマンの土地を借りて80年前にスタートしたこの学校が、統合によってなくなってしまう事が無性に悲しかった。出来ることなら、ずっとここで勤めたいと思ったのだが・・・。

7. NC高校(20064月~20133月)

「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」と憲法24条にあるが、N高校(女子高)とN北高校との統合は、決して両校の「合意」だったとは私には思えない。私がN高校に転勤した時には、県の方針で既に統合路線が敷かれていた。教育課程や生徒指導のあり方、クラス編成をどうするかなどを双方の学校でそれぞれ審議し、両校合同の会議ですり合わせて統合作業は進んだが、目玉としての「特別進学クラス」の設置やスポーツ推薦に至っては浅墓な方策だったと思っている。「日東駒専」に一般入試で合格者を出す、そのための選抜クラスの編成、週二回の7限授業、春・夏二回の特別合宿などが実施されてきたが、その成果は全く持って検証されず、推進した人達は早々に転勤して管理職の道を駆け上がっていった。また、統合時にいた教員の大半が転勤し、当時目指した方向性を理解し、推進する教員はいない。この「特進」クラスが他のクラスに及ぼす悪影響や受験の方便にしか利用されていないスポーツ推薦の問題がいま、顕在化してきている。普通の学校に戻し、全体を底上げすることの方が大事だと思う。

私はこの学校で2度卒業生を出している。最初は、N高校入学の最後の卒業生。統合前の中学校への説明とは違って、別学で進んだ二年間だった。N高校出身の2クラスともを自分のクラスとの感覚で指導した。生徒が心を一つにしたときの合唱の感動は、忘れる事が出来ない。二度目は、目の手術で病休明けにも関わらずいきなりの3年の担任。しかも40人を超える就職指導。2クラスの担任をやっているようなものだったが、クラスの方は正副委員長に全幅の信頼を寄せ任せて正解だった。1年間クラスで怒ったことは一度もなく、生徒との掛け合いで毎日楽しい担任生活が出来た。卒業後、クラスのブログも立ち上げ、誰でも記事を書き込むことが出来るようになっている。「君たちが私の最後の担任生徒」と言っていたが、産休代替でなんと今年1月から急遽1年生の担任をすることになった。3月に退職することを決めていたのに・・・。

本校で私がやれたことはほとんどない。やれたことを敢えて言うなら、とても20年を経過したとは思えない旧N北高校の継続性のない校務分掌の一端を、新たに作り、残したことかな? 来る日も来る日も求人企業データをパソコンに打ち込みデータベースを作成し、就職指導関係書類や指導文書を一からつくった。毎年のように管理職から乞われた学年主任を一度は受けるべきだったかと多少悔やんでいるが・・・。

8. 若い教員へのメッセージ

<教科指導について>

 教員は教材研究をやらなくなったらおしまいだ。新たな知見を得た感動と喜びは授業に反映され、生徒にストレートに伝わるものだ。十年一日の如く色あせたノートやプリントを持って授業するようになったら辞めた方が良い。また、社会科や理科の教員は、若い内に自分の専門以外の科目を教えておいた方がいい。獲得した知識が自分の専門分野にも生かされ、新たな気づきをもたらしてくれるのと後から新たな知識を吸収するのはかなりしんどいからだ。学ぶことの楽しさを伝えられるのは、日々学んでいる人である。学ぶ人であれ!

<生徒指導について>

 完成された人間はいない。過ちを犯した生徒を一生不変だとばかりに切り捨ててしまう教員がいるが、生徒は度々過ちを犯すものだ。時にはだまされても良い。

自ずからなる反省のないところに態度変容はないのだから、追いつめすぎても良くない。どこかに逃げ道を作ってやることも必要だ。ただ、譲りすぎても良くないし、最悪なのは自分がぶれてしまうこと。カウンセリング・マインドを持って接しながらも、信念を持って毅然と対処すべき時は実行することが最も肝要だ。また、理屈が通らない指導はもっての他だが、理路整然としてさえいれば指導効果が上がるとは限らない。時には自分の感情や思いをストレートに伝えることも重要だ。「君の・・・を私は不快に感じる」「嫌だ」「許せない」etc

<進路指導について>

進路は、どこに進学・就職させたかという出口指導ではない。生徒の自己実現への援助だと思っている。何がしたいかわからない、とよく生徒は言うが、わかろうとしていないのも事実。自己を見つめさせる機会を早期にかつ多く作り、どんどん決断・実行することを迫って行くべき。考えさせることに躊躇はいらない。こちらはどんどん迫ろう!

<担任について>

教員の醍醐味はなんと言っても担任である。進路部長として3年間を見通した指導をしてフリーターを半分以下に減らしたところで自己満足に過ぎないが、担任として3年間面倒を見て、子供達が成長していく姿を目の当たりにし卒業させたときの感動と達成感・成就感はこの上ない。指導の苦労に比例して喜びがある。

教員をやってて良かったと思える瞬間である。

<いじめについて>

私はS高校とN高校の二校で、担任として「いじめ」事件に対処してきた。どちらも本人や友人からの申告で発覚したケース。10数年前にK市教育対話集会の「いじめ」分科会で話題を提供し、私なりの経験と方策などを提言した。

その際、「学校現場に求められていること」として、次の8点を挙げた。

①「苛めを絶対許さない」という職員個々の信念と行動、職員間の共通理解

②生徒に対して自分の姿勢を毅然として示す態度・行動

③生徒の可能性・可変性を信じ、生徒に存在感・信頼感を与えれれる教師

④苛められている子を守るために考えられる最善の方法の模索と的確な対応

⑤苛めている子を切り捨てるのではなく、愛情を持った真摯な対応

⑥「自分の管理能力が問われているのではないか」という自己保身を超えて、事実を詳らかに出来る勇気

⑦その事が可能である民主的な学校運営と職員全体の援助・協力体制

⑧生徒一人一人に目配りできる人員配置と定数減・教育予算の増額

おわりに

 

壁にぶつかって何度も教員を辞めようと思った私が30年も続けて来れたのは、生徒の笑顔に支えられてだろう。泣かされたのが生徒なら、救ってくれたのも生徒達であった。

安倍政権は、民主党が進めてきた35人学級を凍結し、ゆとり教育の弊害除去策として学校六日制に戻し、「新しい戦前」教育を進めようとしている。そうした中で起こった大津のいじめ事件では、職員間での情報の共有ができていなかったことが指摘されている。公務員バッシングが進む中で現在の教員を巡る環境は、様々な締め付けが強化され、指導案やシラバスなど文書主義を強制され、些末な校務に翻弄されて生徒達と接する時間がどんどん奪われているのが実態だ。雑務をこなすことに汲々として生徒に目配りできないばかりか同僚のことを気に掛け、助けてやれない。多忙化の進展の中で教員が分断され、タコツボ化している。子供達のパワーは良きにつけ悪しきにつけすごいものがあり、そのパワーがマイナスに働いたとき担任一人の力は無力に等しい。タコツボ化していては到底対処できない。職員みんなで連携し支え合うしかない。「一人が皆の為に 皆が一人の為に」だ。

いま教育に求められているのは、成果主義を導入してのcompany化ではなく、この共同(協同・協働)の「エコ」化(EducationCo-operation化ないしCollaborataion化)ではあるまいか。トマトのわき芽は摘まないと枝は四方八方に伸びて手が付けられなくなるように、生徒の悪い芽も早期発見・早期対処が必要なのに困難な状況下にある。情報の共有と職員相互の協力と連携が取れる環境にないからだ。それなしにはいじめの根絶は不可能であるのに。いじめ担当教員や学校カウンセラーの配置という対症療法ではなく、少人数学級の導入こそ進めるべき施策の第一であろう。

また、知り合いの木工職人が言う環境変化を想定した「あそび」も教育界には必要だ。「貧すれば貪す」という。「ゆとり」のないところに良い教育は成り立たない。利潤追求の企業の論理と教育は明らかに異なるのだ。この「あそび」の復権こそがいま最も教育界に求められていることだと私には思えてならない。

マルクス主義から人間主義へと私を誘い、30年間の教員生活の中で肝に銘じていた言葉を最後に紹介して擱筆する。(サンティグジュペリ『星の王子さま』)

It  is  only  with  the  heart  that  one  can  see  rightly ;

what  is  essential  is  invisible  to  the  eye."

これまでに出会った全ての方々に感謝を捧げたい。「ありがとうございました!」

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